講演会
小田原藩の尊徳登用と仕法「畳置」
令和6年5月
講演者:立正大学非常勤講師 松尾 公就氏

大久保忠真の表彰と二宮尊徳の登用 文政元年(1818)、小田原藩主大久保忠真は老中就任後、京都所司代を後任に引き継ぎ、江戸に向かい、小田原に立ち寄り、江戸に出立時に、酒匂河原で「奇特人・孝行」13人を表彰。その内に金次郎の他耕作出精人が8人選ばれた。文政4年、金次郎と他出精人4、5人が下野国桜町領の立て直しの見分を命じられ、金次郎の申し立てが採用された。同5年に金次郎を登用して桜町陣屋勤番を申し付けた。
天保飢饉と小田原仕法の着手 天保飢饉となる。天保8年(1837)2月7日に江戸上屋敷で小田原領仕法着手の忠真直書を受け取り、鵜沢作右衛門と江戸を出立。忠真は「安堵す也、重存分に取計也。一時も早く参るへし」と家老辻七郎左衛門へ申し付けたが、忠真が大病(翌月病死)で家老の辻は帰国せず江戸に留まった。金次郎が小田原に赴いたところ、国元の重役らとの確執があり、「列座と蔵奉行とニ開倉の確論あり」すぐに米蔵を開くことが出来なかった。
小田原仕法の「畳置」とその後 天保13年、尊徳は幕臣に登用される。弘化3年(1846)6月日光仕法雛形を幕府に提出。弘化3年7月小田原藩留守居役から仕法「畳置」を申し渡される。理由を伝えられず。新藩主・忠愨の近臣が忠真の登用者を避ける、権力闘争か。忠真側近の中垣謙斉が以前の遅刻を咎められる。鵜沢作右衛門は大久保家分家の荻野山中藩出仕となる。小田原藩は仕法畳置で尊徳に報徳金5100両余りを返済すると申し出たが、一括返済できず1000両づつ返済した。
「異なる視点からみる小田原合戦」 ─各種史料の検討から見えてくるもの─
令和5年 5月

講演者:小田原市文化財保護委員 鳥居 和郎氏
小田原合戦は、天正十八年、豊臣秀吉が天下統一の最終段階として、関東の大部分を支配していた小田原を本拠とする北条氏を攻略するための合戦である。
この合戦について小田原を中心とした見方で解説したものはたくさんあるが、本講演では、幅広い史料特に秀吉側からの史料を中心に小田原合戦を見てみた。
「総構」が構築され、防御性が高く、小田原城は「難攻不落の城」というイメージが先行しているが、秀吉側の史料からは全く違った光景が見えてくる。秀吉は小田原合戦にあたって外交・戦略などで持っているあらゆる知恵をしぼったと考えられる。
小田原合戦は、中世から近世という新しい時代に入る一つの画期となる重要な合戦であり、西の文化と東の文化が衝突した合戦でもあり、歴史的に大きな意味のある合戦であった。
「小田原史談」第274号、275号に掲載予定
相模湾からみた人類の歴史
令和4年 5月

黒潮は本州南岸を蛇行して流れて、分流が相模湾に入る。
旧石器時代、縄文時代にはすでに海を渡り神津島に黒曜石を求めた人々がいた。小田原地域での稲作は弥生時代前期に開始。土器は伊勢湾西岸のものと形態文様が共通し、伊勢湾➝伊豆諸島➝西相模と稲作文化が伝播。小田原市の中里遺跡は弥生時代中期の集落で、伊勢湾西岸の形状の黒曜石の石鏃、器形・文様の土器が出土しており、伊勢湾西岸の人々(海人)が航海を担い黒潮に沿い相模湾へ。中里に弥生のムラがつくられ、相模湾沿岸地域は関東地方の弥生文化の起点となった。
東京大学総合文化研究科
特任研究員 杉山 浩平氏
「小田原史談」第271号、第272号に掲載
小田原藩の藩政改革 -中興の祖 大久保忠真-
令和元年6月

東海大学教育開発研究センター
馬場弘臣教授
大久保忠真の藩政改革を数字に基づいて話された。富士山噴火で荒廃地となった城付き地6万6千石 が幕府に上知され復興され、返還されたが、藩の年貢米は宝永5(1708)年の4.4万石から返還後の1755年には2.8万石弱に減少し、回復に100年を要した。
忠真は①藩財政の再建②民政改革③人材育成④海防の4つの藩政改革を進めた。
忠真が幕閣入りしたことで出来た上方商人との取引きと収益の低い領地替え運動。忠真マジックと云うべき積金趣法(藩営無尽講)による借財返済。10ケ年勝手向改革で、藩の土台(財政収支)を定め、10ケ年の倹約を命じた。
報徳仕法の領内導入は忠真の改革の一部であった。
「小田原史談」第259号(2019年10月) 第260号(2020年1月号)掲載
伊豆と北条水軍 -「小田原海賊」のことなど-
平成30年5月

沼津市歴史民俗資料館
鈴木裕篤館長
早雲の伊豆攻め、武田、徳川、豊臣水軍との戦い、大型の安宅船、長浜城など水軍の城、
伊豆の村人は海賊衆になるのではなく紀伊から招聘した梶原水軍を支える税の梶原番銭を払ったこと、北条水軍は自ら攻めるのではなく領土と領民を守る水軍であったことなど北条水軍の伊豆における実相を話された。
「小田原史談」第255号(2018年10月)掲載
後北条氏以前の小田原
-政治、社会状況からみる鎌倉・室町時代の小田原地域-
平成29年5月

京都造形芸術大学
野村朋弘准教授
小田原の歴史遺産といえば、戦国時代の後北条に関連する事柄が筆頭に挙げられる。
しかし後北条が小田原に入る以前も、平安時代からの荘園や小早川・土肥・大森といった武士がいる。また紀行文に記された和歌でも読まれていた地域でもあった。
そうした後北条以前の小田原の姿を史料を用いつつ考えてみたいと思います。
「小田原史談」第250号(2017年 7月) 第251号(2017年10月号)掲載
セミナー
小田原の豊かな海とさかなの明治時代以降の変遷
元神奈川水産技術センター相模湾試験場長 石戸谷 博範氏
令和6年7月20日
海から小田原を見てみると、生物多様性の源である山、川、海の豊かさがよく分かります。小田原の海は山々に守られています。相模湾は非常に豊かな海なのですが、これにはいくつかの要因が重なっています。まずは水深12000メートルという深い海であることです。ここの海洋深層水は地球規模の大循環に支えられています。これに赤道からくる黒潮がぶつかり豊かな海を形成しているのです。
小田原での漁法として代表的なものが定置網です。大正時代から定置網によるブリ漁が盛んで、寺田寅彦や夏目漱石も小田原の定置網を見学に来ています。
ブリの漁獲量は1954年の57万本をピークに激減しています。相模湾はほとんどゼロまで減ったのに対して、三重県と高知県では現在もある程度の水準を維持しています。この違いは森林率にあります。南方熊楠の三重と牧野富太郎の高知では森が守られているからです。小田原の海には、山からの水と砂と養分が流れて来ないようになってきているのです。海は真水と真砂と森の香りを求めています。
人間のために作られたダムですが、ダムは森や川と海の恋路を邪魔しているのかもしれません。
100年前の被害を伝えたい
小田原史談会 松島俊樹氏 星野和子氏
令和5年9月30日
関東大震災100年にあたり、松島さんと星野さんが講演した。会場には「大震災 殃死者供養塔」などの震災記念碑の拓本を展示した。
松島さんは小田原史談会が関東大震災の様子を伝える「片岡日記大正編」を昨年出版し、この出版のことが神奈川新聞、岩手日報などに掲載されたこと、震災記念碑の拓本採り、拓本と震災写真展示の「関東大震災の記憶展」を開催して、震災の伝承活動をしたことを話した。また、松島さんが翻刻した「関東大震災被害 足柄下郡概要」(小田原警察署作成)に記録された被害状況の一部を紹介した。
星野さんは「ぼうさいこくたい2023」の災害伝承セッションに招待されて小田原史談会の震災伝承活動を話したこと、7月の神戸でのプレイベントで「人と防災未来センター」を見学して基地となるセンターを持つことの大切さを実感したこと、石巻・神戸の若者たちの伝承活動について、ぼうさいこくたいから伝承について考えたこと、小田原史談会のできる伝承の形について話した。
続・小田原の道祖神と道祖神信仰
小田原市文化財課学芸員 保坂 匠氏
令和4年10月22日 実施
道祖神は全国的にみると関東甲信越に多く分布しており、道祖神がほとんどない地方がある。小田原市域には多くの種類の道祖神があり、地域ごとに道祖神の型が分布している。双体像型(足柄平野から曽我丘陵)、僧形単座像型(伊豆半島方面)、石祠型(箱根方面)、稲荷型(御府内周辺)、奇石型(曽我丘陵)、文字碑型(旧東海道沿い)。数は双体像型が65%と多い。
史料に見られる道祖神を紹介し、名称には道祖神、歳の神、才の神、猿田彦、幸の神などがある。
現代の小田原市域の道祖神祭りではどんど焼きが行われ、一部地域で山車曳き、賽銭集めの町内巡りが行われる。また、史料にある昔行われた祭りの様子を紹介。
足柄平野の梨業調査から
小田原市郷土文化館地域資源調査委員
松田町文化財保護委員 遠藤孝徳氏
令和元年11月30日 実施
「小田原史談」第266号 掲載
小田原の民俗資料からわかること
小田原市郷土文化館学芸員 保坂 匠氏
平成30年11月23日 実施
「小田原史談」第257号 掲載